2010.11.06 土曜日
iPod nano 1st
昔買ったiPod nano(第一世代)がひさしぶりに手元に帰ってきた。
調べてみると、2005年発売。4GBで27,800円。
大学一回生の19歳にしてはそこそこ大きい買い物だったと思う。
WebのApple Storeで買ったので本体背面に文字を入れてもらったりした。
(好きな歌手の好きな歌の好きな歌詞)
さっそく充電して同期をしなおして音楽を聴いているのだけれど、
れっきとしたデジタル機器なのにアナログな感じを受けるのはなぜだろう。
画面がパッとしない発色だから?タッチパネルじゃないから?ボロいから?
よく分からないけど、実家で初代のゲームボーイを見つけた感じ。
それにしても小さいし薄いしなんだかんだで頑丈だし、まだまだ使えるな。
2010.11.06 土曜日
たとえばこんな朝が
2010.10.20 水曜日
もうすこし近づいてみる
10月がはじまった!と思っていたら
もう20日なんかになってしまっていたりする。
すぐに11月がやってきて、秋は薄れていくのだろう。
日常のなかで感じる季節もあるだろうけど、
紅葉を見に行ったりしてもっと積極的に季節に浸りたい。
せっかく四季があるんだから。
最近、自分でも意外なほどに週末は誰かと会っている。
先月までは休日に誰かに会いたいだなんて思わなかった。
特にあたらしい出会いとかは完全に避けていて、
心がフリーに解けた関係の人にしか会わないようにしていた。
あたらしい関係をつくるパワーがなかったんだと思う。
ところがここ半月くらい、何がきっかけかわからないけれど
人が人と会うことの影響の大きさに(ようやく)気づいた。
例えば同じ24歳の人とあたらしく知り合ったとき、
ああ、こんな24歳もあるんだ、っていうような
シンプルな驚きというか衝撃・刺激を受けたりする。
うまく表現できないけど、人間のおもしろさ自体に
最近は興味しんしんらしい。
そこからいい影響をすくいとれたらいいな、とか考えたり。
それから最近は写真。
写真ってやっぱりいいよなぁとしみじみ思う。
しみじみ思っているだけではつまらないから
もうすこし写真に近づこうと思っている。
どうやって?さてどうしようかな。
2010.10.16 土曜日
その理由(草案)
世界にはきれいがあちこちに散らばっている。
たまたまそこを通りがかったときに見つけられるもので、
たぶん探して見つけるものではないと思う。
そしてそれらは誰でもときどき出会っているんだけれど、
たとえば心のセンサーが反応する閾値に達していないせいで
気付く機会を逸していることがあるんじゃないだろうか。
もちろんセンサーの感度とか特性とかは人それぞれだから、
ぼくがきれいだと思うものをそうは思わない人はいるはずで、
その逆のことも起こりうるはずなんだろうけど。
ぼくが写真を撮る一番大きな理由は、
そういった出会いがあったという事実を写真で残しておくことで、
たとえその記憶が意識の奥底の隅っこに沈んでしまったとしても
写真がトリガーとなって再認識することができるから。
きれいな風景を「きれいだ」と感じた瞬間の
たぶん絶対にことばにはできない感覚というものはとても脆くて、
それゆえに時間の流れの中であいまいに分解されていってしまう。
そのことがもったいないというか、怖いというか。
街で見かけたきれいな風景ってとてもささいなことだけど、
ぼくにとってはささいなことの積み重ねが日々のしあわせであるし、
もしもそういう風景に反応できない人間になってしまったら
その後の人生はどれだけ味気のないものになるだろうか。
写真がすきだ。
その理由はこんなところかもしれない。(違うかもしれない)
草案として書き残しておく。
2010.10.08 金曜日
たぶん明日はやってくる
4年前の今日、ぼくは20歳になった。
大学2年の秋は実に宙ぶらりんな状態で、
あらゆる方向に自由落下しながら暮らす毎日の中、
ただ素直に感じ、素直に行動していた。
自分の感覚を信頼していた。
色や音、光、風、ことば、時間、ひと。
太陽と月がくるくるとまわることが素晴らしかった。
今夜は気持ちがまとまらない。
だけど忘れそうになっていた部分がひさしぶりに熱を帯びた。
いつか来なくなる明日を積み重ねて、ぼくは生きていく。
2010.10.06 水曜日
オレンジの星
時間が経つのは早いものでもう10月。夏がなかなか終わらないなあと思っていたら、ばーっと雨が続いて、いつの間にか遅刻気味の秋空がすまし顔で広がっている。今日の空を秋空と呼ぶにはまだ少し未完成のように感じるけれど。
秋と空のイメージ。
綿をほぐして薄く薄く伸ばして手遊びしていたら、冷たくて気持ちのいい風に吹かれて高い空へとさらわれてしまったような、そんな雲が浮いている。ベランダから空を見上げると飛行機が飛んでいて、綿雲と飛行機、どちらのほうが高いところを泳いでいるのかわからないけれど、飛行機は見失いそうなほど小さくかすんでいる。昼間の星のように太陽の光がちらちらと反射する機体を見つめていると、また風が吹いて甘い香りがする。それがキンモクセイだと気づいて、ああ秋が来たんだと少しうれしくなる。
2010.09.26 日曜日
真夜中について
真夜中の空にむけて一本の棒が立っている。
その先端、とても高いところに小さな白い布切れが結ばれている。
ゆっくりとしたやわらかい風が吹き抜ける。
布切れは音もなくふわりふわりとはためく。
全体がふわり、端っこだけがふわり。
そこに出来る限りささやかな音楽をのせてやる。
するとそこには自分だけの夜がひらかれる。
風と音楽が流れ、見上げれば月と星が映る。
真夜中とは、そんな時間のことをいうらしい。
2010.09.23 木曜日
わかんないこととわかったこと
わかんねぇなあ、って感じることがある。
なんでそんなこと言うんだろう。
なんでそんなことするんだろう。
なんで、なんでって想像してみるんだけど、わかんない。
ある人が何かをする。
その行動の影響を受ける場所に自分がいるときに、
行動の理由とか目的が分からないとすごく不安になる。
彼は何を伝えたいのだろう、何を求めているのだろう。
行動することは外部への発信のかたちのひとつだから、
きっとその行動には少なからず意味があると思っている。
だけど、はっきりとした意味が読み取れない行動で、
結果として不快感を与えたり不安に陥れたりするだけになったりすると、
なんだかそれ自体が目的なんじゃないかと思わずにはいられない。
そんなときに、わかんねぇなあ。って暗くなるのだ。
他人のことをきちんと把握・理解することはむずかしい。
そのことをこれまで避けてきた人間にとってはなおさらだ。
だからこそ最近は、相手のことがなんとなくわかっていて、
自分のこともどうやら少しはわかってもらえているらしいと感じることが、
どれだけしあわせで楽しいことかということが、ようやくわかってきたりしている。
2010.09.20 月曜日
だれかへの歌
2010.09.18 土曜日
Fro-Yo
2010.09.17 金曜日
ぜんまいを巻けない
2010.08.28 土曜日
世田谷の西端、ボロ屋の三階角部屋
2010.08.26 木曜日
夏と花火と電車とぼくと
夏の終わりが感じられる。朝の日差しに、夕空の色に、夜の風に、夜更けの風に。
アスファルトにころがるセミの亡き骸。そこには妙な軽さが感じられる。そのたたずまいに、たましいの行方とこの世に残された身体の処遇を想う。夏はどこへゆくのだろう。
今年はいくつかの花火を見た。どれもきれいで自然と胸躍らされた。だけど、夜空を吹き抜ける破裂音が最近どこかぽっかりとしてしまったこころに反響して、自分が空っぽになっていることに気づいた。打ち上げられた花火玉が薄く尾を引きながら天を目指す。ふと姿を隠す。そして高く、広く、艶やかに光を降らす。すこし遅れてこころを打つ。ぼくはそんな花火が好きなのだ。
昔、女の子と夏祭りにいった。まだ中学生だった二人はどうにも気まずくて、つかず離れず歩きながら屋台をめぐったり、人の少ない場所で話をしたり黙りこくったり。しばらくして河の上流で花火が始まった。みんなが集まる橋には近寄らず、すこし離れた駐車場で空を見上げていた。最後まで見ていたかったけれど、「帰り道で同級生に見られたらまずいよね」とか言って、盛り上がる花火を背にして電車に乗り込んだ。そしてぼくは車窓から見る花火の美しさを知ったのだった。
2010.08.05 木曜日
月が形を変え、星は流れた
2010.07.11 日曜日
孵化する空
土曜日、梅雨の晴れ間。朝から押入れの掃除をした。ときどき自分の持っているものを点検して、要らないものは処分していく。そうしないと持ち物が把握できなくなってしまうから。今回は、姉が「もう使わないから」と送りつけてきた安物のスチームアイロンを捨てた。ぼくには普通のアイロンがあれば十分だし、単一の機能しか持たない道具というのはそこそこ良い物でなければ使っていて快適ではないものだ。たぶんあれはドンキホーテで3000円以下の代物だ。
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この日曜日は参院選の投票日。日曜日は雨が降りそうだから、という理由で土曜日に期日前投票をしてきた。昨年の衆院選は引越し時期と重なってしまい、世田谷区で投票するつもりでいたら前住所で投票しなければならないと言われたので億劫に感じて放棄してしまった。というわけで東京に来てからはじめての投票。用意されていたえんぴつの書き心地がとてもよかった。真っ黒の芯が紙との摩擦によってうっすら熱を帯びて融けながら線をひいているようだった。
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投票のあとは下北沢へ。レンタルビデオショップでDVDを3本借りた。DVDを選んでいる間、棚と棚のあいだをうろうろと歩き回る自分を含めた人間の動きが、決まったエリア内をランダムかつ永遠に歩き続けるロールプレイングゲームの町人みたいに思えた。その後、あちこちにある古本屋をいくつか回り、探していた作品の文庫版を200円で見つけた。本棚にぎっしりつまった膨大な本の背中を眺めて歩く。それだけでも楽しい。気になった本の頭に人差し指をかけてひき出し、ぱらぱらと味見をする。そしてまた元の隙間にすっとさしこんで人差し指でぐっと押し込む。その動作がまた楽しい。
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うまくやっていくことの難しさを感じる人は多いだろうか。ずる賢くないとやっていけないのだろうか。ずる賢いと感じることがおかしいのだろうか。まだ心の中の素の部分が拒絶しているのがわかる。それは甘いのだろうか、弱いのだろうか、拙いのだろうか。だけどぼくはまだ自分の反応を信じているし、失いたくない。適応することが必要なのは明白だが、そのことを表層だけにとどめられるのだろうか。どこか深いところまで染みこんでしまったら、という恐れを捨てきれないでいる。
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偏光レンズごしの空はとてもきれいだった。