2011.12.11 日曜日

今宵の皆既月食に寄せて

DSC_0030

皆既月食を眺めている。
月にじわりと影が落ちていく。
欠けていく黄色い月に注がれていた意識が、
徐々に満ちていく薄明かりの赤い月にシフトする。
いつも見ている月がとても眩しく感じる。

地球で手を差し出すと地面に影が落ちる。
遠く離れた月でそれと同じことが起きている。
光に照らされて、影ができる。
それをみんなが見つめている。

道を歩く人が空を見上げて足を止めた。
「なにあれ?」
皆既月食が起きることを知らなかったらしい。
「すごい」
ぽつりとつぶやいた彼女はしばらく時間を忘れていた。
人が何かに感動する姿はまた、僕を感動させた。

最近、時間の感覚が伸びたり縮んだりしていて、
自分のペースを守りきれずに翻弄されているうちに
気がつくと、とても寒い季節になっていた。
一定の速度で欠けては満ちていく月を眺めて、
いったん気持ちがリセットされたような気がしている。

2011.11.24 木曜日

『裁判長!ここは懲役4年でどうすか』

DVDにて鑑賞。

2011.11.24 木曜日

『洋菓子店コアンドル』

DVDで鑑賞。

2011.11.19 土曜日

枯葉っていい単語

秋空

数年前にリバーサルフィルムで撮った写真。
アパート近くの公園。

秋晴れの日の空はきれいな色をしている。
冬を待つ季節の風はとても澄んでいる。
乾いて色づいた葉っぱは光に透けて深くなる。

そんな季節がすきでした。

2011.11.02 水曜日

思い出すために生きている

bw #1
More… »

2011.10.23 日曜日

雑感:伊藤圭のポートレート写真展

伊藤圭 ポートレート展#1

『伊藤圭のポートレート写真展』に行ってきました。
Twitterでも流しましたが、追記した感想を書いておきます。

More… »

2011.10.15 土曜日

あまいものが必要なとき

渋谷カフェ

渋谷・FREEMAN CAFE。
わりといつも満席に近いけれど、テーブル同士の間隔が広いせいか騒がしく感じない。そもそも席数がそんなに多くない。落ちついた店内から大きな窓越しに明治通りを見渡していると、自分たちだけ時間の流れから一歩外れたような気分になる。
平べったい鉄容器に入ったクリームブリュレみたいなデザート(すごい甘いやつ)をスプーンでつつきながらコーヒーを飲んで、ひたすらぼーっと過ごすのはとても心地良かった。

そういえばBessaの修理見積りの連絡がきた。
シャッター修理と各部点検、ファインダー清掃で16,000円也。

2011.10.12 水曜日

そんな自問

foreigners

街にはカメラを持った人がたくさんいる。
みんないったい何を撮ってるのだろうか。

2011.10.11 火曜日

たとえばこの部屋で

magazine

クッションに手をあてて
ぐっと押し込んだときの手ざわりや
カーテン越しの光のまぶしさや温度は
いったいどこまで伝わるのだろうか。

この女性の目線の先になにがあるのか
そのことをぼくが知ることはないけれど
それでも、この写真はうつくしいと感じるのです。

2011.10.08 土曜日

湯けむりの中で

25

今日で25歳になりました。

最近はだいぶ自分が見えてきて、それが結構つらかったりもする日々です。それでも、ぼくはもうしばらく生きていくつもりだから、もっと素直にやっていければいいなあと、箱根の温泉につかりながら考えたのでした。

生きることは、ときどきつらいけど、まぁ楽しいです。うん。

2011.09.26 月曜日

淡々と重ねるもの

a man

書きたいことがたまってきた。
頭の中で整理できたら、ばばっと書きだそう。

ここ数日、朝の空気がとても冷たく感じる。
季節の変わり目は体調をくずしやすいし、眠い。
寒がり&眠たがりなのでしばらくはぼんやりしそう。

明日は月曜日だけど会社の飲み会がある。
上司と後輩(新人くん)の異動送別会。
新人くんがいなくなっちゃうのでまた幹事役だ。
お店の予約をようやく済ませたので寝よう。

0時を過ぎてもラジオからは音楽が流れている。
ラジオの収録スタジオを想像しながら聴くのが好きだ。
ぼくはいつもガラスの外からそれを眺めている。
整えられた音声が淡々と耳に入ってくる。
語る人のトーンの変化を感じながら、おやすみ。

2011.09.18 日曜日

写真展のお知らせ(知人のですが)

Photographer

ちょうど1ヶ月前になったので告知のお手伝い。
来月、下北沢のギャラリーで知人の写真展が開催されます。

この人(上の写真の人)とは、大阪での学生時代にmixiを通じて知り合いました。彼が部長をつとめる写真部「ししゃも写真部」に参加し、ときどき一緒に撮影に行ったりしていました。そういえば就職活動の自己PR欄に使う写真を彼に撮ってもらったら見事に書類審査を通過しました。(そして二次試験であえなく落選しました)

いまは僕も彼も東京にいて、年に1回ペースで会う程度の間延びした関係ですが、彼の写真はすきなのでWebに公開されている作品をときどき覗いたりしています。ぜひ見てもらいたいと思います。

『伊藤圭のポートレート写真展 〜たくさんの愛と驚きと時間たち〜』
 期間:2011年10月18日(火)〜2011年10月23日(日)
 場所:下北アートスペース (ヴィレッジヴァンガードの向かい)
 ※写真展の詳細情報は彼のWebサイトでご確認ください。

期間中はずっと在廊するそうです。
ぼくも何度か行こうと思っています。
ぜひ、どうぞ。

2011.09.15 木曜日

あるひとつのルーチン

at the cafe

晴れの日が続き、昼は青空に白い雲が映え、夜はきれいな月が部屋を照らす。できることなら何も考えずに空を見上げながら時間を過ごしたい。そんな一週間。

最近の週末はなんだかんだでいつも予定が入っていたのでオフモードになれる時間が少なかった。今週末はいまのところ何も予定がない。天気がよければ見晴らしのいいところでのんびりしよう。カフェでぼーっとするのもいいかもしれない。

今日もいつもの女性がいつもの犬を連れて店の前を通っていく。そのシーンを見るのがささやかな楽しみで、いつまでも続けばいいのに、なんてぼんやりと思ったりしている。

2011.09.12 月曜日

線香のけむりは白くただよう

time

新宿駅東口前で夜行バスを降り、小田急線に乗った。通勤時間帯の下り電車はガラガラではないが余裕があって、いつも満員電車に揺られている感覚からすれば非現実的な感じがしなくもない。だけど急行から各駅停車に乗り換えるホームで振り返ると、上りホームにはやはりいつもの光景が広がっていた。違うのはいつもうしろ姿しか見えない乗車待ちの人々の顔がよく見えることだった。ときどき、朝起きたときに「ポジティブであれ」なんて念じたりもするのだけれど、満員電車にはそんなささやかなおまじないを一瞬でかき消してしまう絶対的な闇が漂っている気がする。こんな天気のいい朝ですら、である。

母方の祖父の法事にいってきた。13回忌だった。
中学校の体育祭の練習中だったことを覚えている。入院していた祖父が危篤状態になり、体操服のまま母親の車に乗せられて大阪へ向かった。だけど高速道路に入る手前で「息を引き取った」という連絡が入り、いったん自宅に帰って身支度をすることになった。車のハンドルを握る母親に話しかけることはできなかったし、ルームミラー越しに顔を見るのもこわかった。祖父の家についたとき、祖父は畳に敷かれた布団の上で眠っていた。とても白くてきれいな服と、鼻の中の脱脂綿が妙に印象的だった。火葬場で最後のお別れをするとき、棺に祖父の腕時計が入っていたのを見つけた。いつも身につけていたSEIKOの時計だった。祖母に「ちょうだい」と言って譲ってもらった時計のベルトはとても細く詰められていた。

人はいずれ死ぬのだということをぼくはいろんな人から教わってきた。親戚、友人や先輩、好きな俳優や作家、あるいは物語の登場人物。死ぬことへの恐れに縛られては生きづらいだろうが、どんな人でもほんの少し死の匂いを身に纏って生きていることを忘れたくない。自分はどんなふうに生きていくのだろうかという問いは、どんなふうに死んでいくのだろうかという問いと一対であると思う。ぼくはまだ生きていくし、いつか死んでいくのだ。

2011.09.10 土曜日

水面がじりじりと震えている

朝の光が拡散した青空に薄い雲が均一に混じっている。光源で白む空から遠ざかるにつれて深まる青のグラデーションはとてもなめらかで、バスの窓から眺めていると距離感がつかめずに不思議な気分になる。2011年9月10日、大阪の朝だ。


ある物事に対して、「経験したことはないけど自分はそれを受け入れられないだろう」と直感的に判断して選択肢から外すのと、「きっと受け入れられないだろうな」という想いを隠し持ちつつも、その時点で切り捨てる勇気がなくてとりあえず経験をしてみて、やっぱり受け入れられないことを確認するのと、結果的にはほぼ同じことだろう。だけど後者はとても遠回りしちゃってて、「それも経験値になる」という捉え方もあるかもしれないけど、直感を信じ切る覚悟があればそちらでも経験値を得ていたのだろうから、慰めの自己暗示でしかないような気もする。

2011.09.09 金曜日

深夜のはらいたセレナーデ

26740021

おなかが痛くて目が覚めた。
眠れなくなって、むかし撮った写真をながめていた。
どれだけのものが積み重なって現在に至っているのだろうか。
深夜の空気がその途方もなさに一層の深みを与える。

夏はいよいよ終わろうとしているらしい。
ここ数日の暑さもどこか真夏のそれとは違っている。
朝の空気は固く冷たくなりつつあり、空には秋の雲が漂う。
姿なきセミの鳴き声は減り、鳴き終えたセミの姿が散見される。

今日も明日が来て、明日も今日を過ごす。
ぼくはそんな日々になにを遺していくだろうか。
いつかの自分が撮った写真はそれを教えてはくれない。
ただ、写真を撮った自分がその瞬間そこにいたという
変わることのない事実と、そこに匂う時間を超えた思考の
切れ端に対してこうして意味を探したり、求めたりするだけなのだ。

2011.09.07 水曜日

おにぎり行進曲

昨日、シャワーを浴びながら窓の外を見ると夜空に月が見えた。
その日のTwitterでは多くの人が秋の空気を感じ取っていた。

生活の中でパターン化しているものがあるとすこし安心する。
鍋に3合の米を入れて、600mlの水を注ぎ、沸騰するまで強火にかけ、沸騰したら弱火にして15分、15分経ったら10秒だけ強火、10秒経ったら火を消して10分間蒸らす。そうして炊き上がったご飯をお茶碗で量りながら5等分してラップに包み、熱がとれたら冷凍庫に入れる。翌朝、2つの冷凍ご飯を取り出しレンジで温める。温まったらひとつづつお茶碗に戻して混ぜご飯をつくり、ふたたびラップで包んでおにぎりにする。2種類の混ぜご飯おにぎりを用意して、一日が始まる。

そんなささいなパターンがこころのペースを落ち着かせてくれる。
柔軟であることと軸がないことは違うのだと、あらためて言い聞かせる。

2011.08.25 木曜日

花火

花火#01
 

今年も花火を見上げた。

 
More… »

2011.08.21 日曜日

写真の強さについて

Starbucks

夏の写真ができました。
Bessaのシャッターの具合がわるく、
結局36枚フィルムを1本しか撮りませんでした。
だけどその36枚には2011年夏のエッセンスが
きちんと写っていました。
 
関西での最終日、大阪駅からの夜行バスに乗る前に
HEPホールで開催されていたアルバムエキスポに行ってきた。
ぼくはそこでフィルム写真の物理的な強さを改めて感じた。
3月の地震・津波に巻き込まれた写真たちが
ひとつひとつ人の手によって拾いあげられ、
意志ある人たちによって洗浄され、選別され、保管され、
その中から自分たちの写真を見つけ出す。
ほんとうに気が遠くなるほどアナログな作業。
保護された写真はぼろぼろになったりしていたけど、
そこに写る人の表情はあいかわらずいきいきしていて、
そんな写真1枚の存在の強さ、価値の尊さが
地道な作業をつないでいく原動力になるんだろう。

今日8月21日が最終日です。
Link:アルバムエキスポ 2011

 

2011.08.06 土曜日

音もなく太鼓が遠く響いている

夏

だいたいの写真は1秒以下の時間幅で、音もなく、
ある一人の人間の視点のほんの一部を切り取っている。
この世に確かにあった一瞬を、そんな限られた条件で残す。
そう考えると写真はとてもいとおしい。