2009.07.02 木曜日
ふとした時間に時間を感ず
ちょっと曇り空を見上げて雨を心配している間に、6月は過ぎていった。
早く寝て、早く起きる。子どもの頃に散々言いつけられた生活リズム。
あの頃はできなかったけれど、今はきちんとできている。
目が覚めた直後の、「自分」と「自分じゃない何か」を足して二で割ったような感覚。
それらがじわじわと重なり合ってぴったり一つになるのは、駅まで歩いく道すがら。
ふと立ち止まり、曇り空を見上げてみる。そんな6月が過ぎていった。
いつもより早く出掛ける準備ができた。余裕って大切。
あっという間に6月も中盤。わけも分からず右往左往している毎日なので、気が付けば夕方で、ヘトヘト。んで、もう木曜日。明日は金曜日で、TGIFってやつですな。すんなり帰りたい。帰るのだ。
同期と話していたのだけれど、やっぱり週末に楽しい予定があるのとないのとではウィークデーのモチベーションが違うよね、という幸せに生きる方法論。うん、確かにそう思う。そう思うのだけれど、そううまくいかないのが世の常で。嗚呼、今週末はノープラン。せめて晴れてくれ、と説に願う。祈る。頼む。
あ、時間だ。いってきます。
ゆったりとした日曜日。
少し遅めに起きて、適当に朝食をとり、意識の中核を宙にぷかぷか浮かべながらコーヒーを飲む。ラジオの天気予報によると、昼間は晴れ間もみえるが夕方からは雨が降るらしい。梅雨だからねー、と一人でふんふん言ってみる。
晴れているうちに掃除機をかけ、洗濯機を回し、靴を磨く。音楽を聴きながら、鼻歌をこぼしながら。気分は悪くない。今日は日曜日だ。一週間をリセットし、心を切り替えるための準備をしなくちゃいけない。それも午前中に終わらせることが肝要だ。午後は自由に有意義に、あるいは思いっきり無駄に使いたい。
昨日、久しぶりに手紙を書いた。短い手紙だった。
その手紙を今朝、捨ててしまった。期限が切れてしまったから。久しぶりにしてはなかなか良く書けたと思ったのだけれど、仕方なかった。
夕方、雨の音が鳴り始めた。初めは固く響いた雨音が、次第に解きほぐされてきめ細やかな音色となって街を包んでいった。冷たい風が部屋にするりと忍び込んだ。
たくさんのものを見てきた。
もうほとんど記憶は薄れてしまった。
薄れた記憶とは
色褪せた写真やかすれてしまった絵画のようなものではない。
あちらこちら虫食いに遭った木の葉のようなものだ。
ところどころは青々と鮮やかに残っている。
ところどころの情報がすっかり欠落している。
かろうじて残った記憶は、ふとした瞬間だったりする。
さり気なく、何気ない瞬間。
そんな記憶が頭の中で鮮明に浮かぶ。
何度も頭に浮かべる。
じわりじわりと定着してゆく。
ふとした瞬間だった。
もう忘れられない。
やけに穏やかな気分でベッドに座っている。音楽を聴きながら、カフェオレを飲みながら、足の指を遊ばせながら、おもむろに文章を書いてみる。舌に残るハチミツの甘味と鼻に残るコーヒーの苦味、それぞれの余韻がぼくの意識をほぐしていく。穏やかで、幸せな気分だ。
最近はあまり写真を撮っていない。写真を撮る、ということを考えることが少ない。カメラを持って出ることをしなくなっている。時々、部屋の中でゴロゴロしながらカメラを触り、感覚を確かめるように何度かシャッターを切ってみる程度だ。その行為をするたびに、カメラが好きだと再認識させられる。シャッターを切るまでのひとつひとつの操作自体が好きというだけでなく、シャッターで幕が開いてフィルムに像がひたと結ばれる現象自体にある情緒的な魅力がどうにも好きなのである。
もう一度、カフェオレを口に含み、飲みくだす。少し冷めたせいか、ハチミツは隠れてしまった。苦味もまた、影を潜めた。代わりに淡い酸味が舌に残った。空になったマグカップの重みが、木の椅子に置いたときにコトンという角の円い音を鳴らした。
写真を見ることは相変わらず好きで、素敵な写真を探す毎日が続いている。30を越すお気に入りブログをめぐったり、Flickrを散策したり、雑誌の写真を眺めたり、いろいろと。そうすると、心が反応して釘付けになる写真に、たまに出会う。そしてぼくはそんな写真にいたく感動するのだけれど、残念なことにその感動をうまくことばにできなくて、例えばその写真が載せられたブログ記事にコメントを残すことがなかなかできない。本当は感動したことを伝えたいのに。かねてからの小さな悩みの一つである。
飲み干されて冷え切った白いマグカップが視界の隅に映る。白熱灯のやわらかい光をその円いからだに反射して、縁がきれいに際立っている。使い慣れたカップには愛着がある。昨日も今日も、明日も明後日も、ずっと飽きることなく使い続けるのだろう。いつかは別れてしまうその日まで。
写真はあまり撮らない毎日。だけど、普段の生活で、写真にしたくなる景色に出会うことは多い。ファインダー越しに見るその景色を想像する。画角は使い慣れた50mmレンズ。フィルムを巻き上げ、ピントを合わせて、適当にレンズを絞って、シャッター速度を決める。そしてシャッターを切ると同時に、その風景を「記憶」というフィルムに写し取る。フィルムは、今夜のようなゆっくりとした時間に、カフェオレを飲みながら頭の中で現像され、印画される。ぼくは素敵な記憶写真を空想する。
そんなことをしながら暮らしている。そんなことが楽しくて、好きなのです。
駅からの帰り道。
すべすべした街灯に目をやる。
足元は太くて、上にいくほどすうっと細くなる。
その先にはやわらかいクリーム色のライトが2つ光っていた。
街灯の電球と、雲にぼやけた月だった。
朝、井の頭線の車内から、あじさいを眺めていた。線路に沿って植えられている。ちらほらと花が咲いている。どこかから「もうすぐ梅雨だな」と声が聞こえた。あじさいが季節を伝えている。
この世界に花がなければ、たくさんの色が失われてしまう。普段、花のことなど気にしない人でさえ、きっと花のない世界は耐え難く寂しいものに感じられるだろう。花はぼくらに色を与え、香りを与え、季節を与えてくれているのだ。
求められているものを与えることは難しい。無意識のうちに与えているものが、誰かに求められているものだったりすることはあるのに。できることなら、求められて与えたい。同様に、求めているものを与えられたい。そう、それは難しい。
東京は案外、緑が多い。花も多い。月もきれいに見える。
夜は短い。夢はめったに見ない。
夢を見よう。花と月の夜の夢を。
今日も一日が終わる。あっさりしたものだった。
結局今日も死ぬことなく、眠りにつくことができる。
きっと明日も死ぬことなく、眠りにつくことができるのだろう。
そう思いながら眠り、そして死んでいった人はどれだけいるのだろう。
そこに山があるから登るのだ、と誰かが言った。
ぼくは、そこに明日があるから生きるのだろうか。
今日は風の強い一日だった。窓を開ければ、たっぷりの湿り気を含んだ空気が部屋へと押し寄せてくる。カーテンはあわてふためくように大きく舞い、それに合わせて光がちらちらと床に跳ねる。空では雲が細かくちぎれて引き伸ばされて、かすれた毛筆のようになって漂っている。その雲が風に流されて太陽にかかると、世界にくっきりと落ちていたかげが淡く溶ける。すうっと日なたと日かげが歩み寄って一つになる。
お気に入りのジーンズの裾にくるくると捲り、お気に入りの靴を履いて、風で重いドアを開ける。青空に浮かぶ雲から、薄らと雨が降っている。光を受けて、細かな雨粒がふんわりと輝く。そんな光景に目を奪われながら階段を降りる。
駅へ向かう道、強めの追い風が細かな雨と混ざりながらぼくの背中を包む。柔らかく、ひんやりと、しっとりと。ふと、道端に止まっている車のリアガラスに目がいった。そこには穏やかな青空と薄く明るい雲が映りこんでいた。それを見た瞬間、なぜだろう、すごく久しぶりに涙が出そうになった。ヘッドフォンから届く音楽がまた、どうにもたまらなかった。