2009.06.07 日曜日

記憶写真

やけに穏やかな気分でベッドに座っている。音楽を聴きながら、カフェオレを飲みながら、足の指を遊ばせながら、おもむろに文章を書いてみる。舌に残るハチミツの甘味と鼻に残るコーヒーの苦味、それぞれの余韻がぼくの意識をほぐしていく。穏やかで、幸せな気分だ。
最近はあまり写真を撮っていない。写真を撮る、ということを考えることが少ない。カメラを持って出ることをしなくなっている。時々、部屋の中でゴロゴロしながらカメラを触り、感覚を確かめるように何度かシャッターを切ってみる程度だ。その行為をするたびに、カメラが好きだと再認識させられる。シャッターを切るまでのひとつひとつの操作自体が好きというだけでなく、シャッターで幕が開いてフィルムに像がひたと結ばれる現象自体にある情緒的な魅力がどうにも好きなのである。
もう一度、カフェオレを口に含み、飲みくだす。少し冷めたせいか、ハチミツは隠れてしまった。苦味もまた、影を潜めた。代わりに淡い酸味が舌に残った。空になったマグカップの重みが、木の椅子に置いたときにコトンという角の円い音を鳴らした。
写真を見ることは相変わらず好きで、素敵な写真を探す毎日が続いている。30を越すお気に入りブログをめぐったり、Flickrを散策したり、雑誌の写真を眺めたり、いろいろと。そうすると、心が反応して釘付けになる写真に、たまに出会う。そしてぼくはそんな写真にいたく感動するのだけれど、残念なことにその感動をうまくことばにできなくて、例えばその写真が載せられたブログ記事にコメントを残すことがなかなかできない。本当は感動したことを伝えたいのに。かねてからの小さな悩みの一つである。
飲み干されて冷え切った白いマグカップが視界の隅に映る。白熱灯のやわらかい光をその円いからだに反射して、縁がきれいに際立っている。使い慣れたカップには愛着がある。昨日も今日も、明日も明後日も、ずっと飽きることなく使い続けるのだろう。いつかは別れてしまうその日まで。
写真はあまり撮らない毎日。だけど、普段の生活で、写真にしたくなる景色に出会うことは多い。ファインダー越しに見るその景色を想像する。画角は使い慣れた50mmレンズ。フィルムを巻き上げ、ピントを合わせて、適当にレンズを絞って、シャッター速度を決める。そしてシャッターを切ると同時に、その風景を「記憶」というフィルムに写し取る。フィルムは、今夜のようなゆっくりとした時間に、カフェオレを飲みながら頭の中で現像され、印画される。ぼくは素敵な記憶写真を空想する。
そんなことをしながら暮らしている。そんなことが楽しくて、好きなのです。

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