Posts from 9月 2011

2011.09.26 月曜日

淡々と重ねるもの

a man

書きたいことがたまってきた。
頭の中で整理できたら、ばばっと書きだそう。

ここ数日、朝の空気がとても冷たく感じる。
季節の変わり目は体調をくずしやすいし、眠い。
寒がり&眠たがりなのでしばらくはぼんやりしそう。

明日は月曜日だけど会社の飲み会がある。
上司と後輩(新人くん)の異動送別会。
新人くんがいなくなっちゃうのでまた幹事役だ。
お店の予約をようやく済ませたので寝よう。

0時を過ぎてもラジオからは音楽が流れている。
ラジオの収録スタジオを想像しながら聴くのが好きだ。
ぼくはいつもガラスの外からそれを眺めている。
整えられた音声が淡々と耳に入ってくる。
語る人のトーンの変化を感じながら、おやすみ。

2011.09.18 日曜日

写真展のお知らせ(知人のですが)

Photographer

ちょうど1ヶ月前になったので告知のお手伝い。
来月、下北沢のギャラリーで知人の写真展が開催されます。

この人(上の写真の人)とは、大阪での学生時代にmixiを通じて知り合いました。彼が部長をつとめる写真部「ししゃも写真部」に参加し、ときどき一緒に撮影に行ったりしていました。そういえば就職活動の自己PR欄に使う写真を彼に撮ってもらったら見事に書類審査を通過しました。(そして二次試験であえなく落選しました)

いまは僕も彼も東京にいて、年に1回ペースで会う程度の間延びした関係ですが、彼の写真はすきなのでWebに公開されている作品をときどき覗いたりしています。ぜひ見てもらいたいと思います。

『伊藤圭のポートレート写真展 〜たくさんの愛と驚きと時間たち〜』
 期間:2011年10月18日(火)〜2011年10月23日(日)
 場所:下北アートスペース (ヴィレッジヴァンガードの向かい)
 ※写真展の詳細情報は彼のWebサイトでご確認ください。

期間中はずっと在廊するそうです。
ぼくも何度か行こうと思っています。
ぜひ、どうぞ。

2011.09.15 木曜日

あるひとつのルーチン

at the cafe

晴れの日が続き、昼は青空に白い雲が映え、夜はきれいな月が部屋を照らす。できることなら何も考えずに空を見上げながら時間を過ごしたい。そんな一週間。

最近の週末はなんだかんだでいつも予定が入っていたのでオフモードになれる時間が少なかった。今週末はいまのところ何も予定がない。天気がよければ見晴らしのいいところでのんびりしよう。カフェでぼーっとするのもいいかもしれない。

今日もいつもの女性がいつもの犬を連れて店の前を通っていく。そのシーンを見るのがささやかな楽しみで、いつまでも続けばいいのに、なんてぼんやりと思ったりしている。

2011.09.12 月曜日

線香のけむりは白くただよう

time

新宿駅東口前で夜行バスを降り、小田急線に乗った。通勤時間帯の下り電車はガラガラではないが余裕があって、いつも満員電車に揺られている感覚からすれば非現実的な感じがしなくもない。だけど急行から各駅停車に乗り換えるホームで振り返ると、上りホームにはやはりいつもの光景が広がっていた。違うのはいつもうしろ姿しか見えない乗車待ちの人々の顔がよく見えることだった。ときどき、朝起きたときに「ポジティブであれ」なんて念じたりもするのだけれど、満員電車にはそんなささやかなおまじないを一瞬でかき消してしまう絶対的な闇が漂っている気がする。こんな天気のいい朝ですら、である。

母方の祖父の法事にいってきた。13回忌だった。
中学校の体育祭の練習中だったことを覚えている。入院していた祖父が危篤状態になり、体操服のまま母親の車に乗せられて大阪へ向かった。だけど高速道路に入る手前で「息を引き取った」という連絡が入り、いったん自宅に帰って身支度をすることになった。車のハンドルを握る母親に話しかけることはできなかったし、ルームミラー越しに顔を見るのもこわかった。祖父の家についたとき、祖父は畳に敷かれた布団の上で眠っていた。とても白くてきれいな服と、鼻の中の脱脂綿が妙に印象的だった。火葬場で最後のお別れをするとき、棺に祖父の腕時計が入っていたのを見つけた。いつも身につけていたSEIKOの時計だった。祖母に「ちょうだい」と言って譲ってもらった時計のベルトはとても細く詰められていた。

人はいずれ死ぬのだということをぼくはいろんな人から教わってきた。親戚、友人や先輩、好きな俳優や作家、あるいは物語の登場人物。死ぬことへの恐れに縛られては生きづらいだろうが、どんな人でもほんの少し死の匂いを身に纏って生きていることを忘れたくない。自分はどんなふうに生きていくのだろうかという問いは、どんなふうに死んでいくのだろうかという問いと一対であると思う。ぼくはまだ生きていくし、いつか死んでいくのだ。

2011.09.10 土曜日

水面がじりじりと震えている

朝の光が拡散した青空に薄い雲が均一に混じっている。光源で白む空から遠ざかるにつれて深まる青のグラデーションはとてもなめらかで、バスの窓から眺めていると距離感がつかめずに不思議な気分になる。2011年9月10日、大阪の朝だ。


ある物事に対して、「経験したことはないけど自分はそれを受け入れられないだろう」と直感的に判断して選択肢から外すのと、「きっと受け入れられないだろうな」という想いを隠し持ちつつも、その時点で切り捨てる勇気がなくてとりあえず経験をしてみて、やっぱり受け入れられないことを確認するのと、結果的にはほぼ同じことだろう。だけど後者はとても遠回りしちゃってて、「それも経験値になる」という捉え方もあるかもしれないけど、直感を信じ切る覚悟があればそちらでも経験値を得ていたのだろうから、慰めの自己暗示でしかないような気もする。

2011.09.09 金曜日

深夜のはらいたセレナーデ

26740021

おなかが痛くて目が覚めた。
眠れなくなって、むかし撮った写真をながめていた。
どれだけのものが積み重なって現在に至っているのだろうか。
深夜の空気がその途方もなさに一層の深みを与える。

夏はいよいよ終わろうとしているらしい。
ここ数日の暑さもどこか真夏のそれとは違っている。
朝の空気は固く冷たくなりつつあり、空には秋の雲が漂う。
姿なきセミの鳴き声は減り、鳴き終えたセミの姿が散見される。

今日も明日が来て、明日も今日を過ごす。
ぼくはそんな日々になにを遺していくだろうか。
いつかの自分が撮った写真はそれを教えてはくれない。
ただ、写真を撮った自分がその瞬間そこにいたという
変わることのない事実と、そこに匂う時間を超えた思考の
切れ端に対してこうして意味を探したり、求めたりするだけなのだ。

2011.09.07 水曜日

おにぎり行進曲

昨日、シャワーを浴びながら窓の外を見ると夜空に月が見えた。
その日のTwitterでは多くの人が秋の空気を感じ取っていた。

生活の中でパターン化しているものがあるとすこし安心する。
鍋に3合の米を入れて、600mlの水を注ぎ、沸騰するまで強火にかけ、沸騰したら弱火にして15分、15分経ったら10秒だけ強火、10秒経ったら火を消して10分間蒸らす。そうして炊き上がったご飯をお茶碗で量りながら5等分してラップに包み、熱がとれたら冷凍庫に入れる。翌朝、2つの冷凍ご飯を取り出しレンジで温める。温まったらひとつづつお茶碗に戻して混ぜご飯をつくり、ふたたびラップで包んでおにぎりにする。2種類の混ぜご飯おにぎりを用意して、一日が始まる。

そんなささいなパターンがこころのペースを落ち着かせてくれる。
柔軟であることと軸がないことは違うのだと、あらためて言い聞かせる。