世界にはきれいがあちこちに散らばっている。
たまたまそこを通りがかったときに見つけられるもので、
たぶん探して見つけるものではないと思う。
そしてそれらは誰でもときどき出会っているんだけれど、
たとえば心のセンサーが反応する閾値に達していないせいで
気付く機会を逸していることがあるんじゃないだろうか。
もちろんセンサーの感度とか特性とかは人それぞれだから、
ぼくがきれいだと思うものをそうは思わない人はいるはずで、
その逆のことも起こりうるはずなんだろうけど。
ぼくが写真を撮る一番大きな理由は、
そういった出会いがあったという事実を写真で残しておくことで、
たとえその記憶が意識の奥底の隅っこに沈んでしまったとしても
写真がトリガーとなって再認識することができるから。
きれいな風景を「きれいだ」と感じた瞬間の
たぶん絶対にことばにはできない感覚というものはとても脆くて、
それゆえに時間の流れの中であいまいに分解されていってしまう。
そのことがもったいないというか、怖いというか。
街で見かけたきれいな風景ってとてもささいなことだけど、
ぼくにとってはささいなことの積み重ねが日々のしあわせであるし、
もしもそういう風景に反応できない人間になってしまったら
その後の人生はどれだけ味気のないものになるだろうか。
写真がすきだ。
その理由はこんなところかもしれない。(違うかもしれない)
草案として書き残しておく。